1951年創業。
日本で最初のロシア料理レストラン「渋谷ロゴスキー」
"Shibuya Rogovski” is the oldest Russian restaurant in Japan.
В Японии первый ресторан русской кухни "Сибуя Роговский"


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昭和二十六年〜二十七年
生きて愛して
ここに一冊の本があります。
長屋美代(初代料理長)が昭和42年に出版した「生きて愛して」(主婦の友社)という本です。

この本は、岐阜の造り酒屋に生まれた美代が軍人に嫁ぎ、戦後、生活のために、 自分にとっては見たことも食べたこともないロシア料理を生業にし、 日々の営業のかたわらロシア語を覚え、ロシア料理原書を読めるようになり、 ソ連に修行の旅に出て、日本にロシア料理を広めていく日々と、 それを支える家族愛について書かれた本です。

この本の中に昭和26〜27年の頃のロゴスキー創業時の話があります。 創業者の長屋緑、美代夫妻がともに40歳代後半の頃のことです。 書き手である美代が59歳の時に振り返って書いています。

一冊の本の途中から抜粋して転記しましたので、読みづらいところもあるかと思いますが、 苦労のなかにも笑いのあるヨチヨチ歩きのロゴスキーの姿をどうぞお楽しみ下さい。
第一話  開店前・食い倒れ一家
(昭和20年の終戦とともに失業した軍人の緑は、 国から支給された退職金を元手に、あらゆる商売をしますが、次々と失敗します。 最後に営んだつまもの屋もうまくいかなくなってきたところ、 「これだけおいしいロシア漬けができるのなら、いっそロシア料理店を開いたら?」 というお客様のアドバイスに夫婦はすがるような気持ちで始めてみることを決意します。ここから原文でどうぞ。)

主人は軍にいるとき、生来の食道楽もあって、 ハルピンのキタイスカヤ街の モデルン、ミシヤ、マルス、ロゴジンスキーなどのロシア料理を食べ歩き、 奉天、新京、白系露人の開拓団などでもロシア料理には親しんできた。
しかし食べただけで自分で作ったことは全くない。
私が聞き覚えで作って、家の食卓をにぎわしていたにすぎぬ。

家の食卓といえば、昔から食い倒れ一家である。
家が荒れ果てていようが、 着物がみすぼらしかろうが、 まず食べることに熱心である。これはご家風で、 主人もほんとになんでも美味しがって食べた。
奥さんも子供もこれにならった。

戦前から阿佐ヶ谷の家はお客の多いところだった。
当時預かっている学生さんはともかくとして、なんとなしに人が集まっている。
主人はお客好きときている。
奥さんはさいふをはたいても食べ物を買いたがって、 台所に明け暮れ、食べ物作りに専念して、「サァお上がりなさい、お上がりなさい」だから、 人の集まらぬほうが不思議というものだ。

これだけ食べ物に熱心では、掃除もお裁縫も手を抜き放題で、 まことに、むさくるしい暮らしであった。
息子ばかりという関係で、自然男性が多かった。
息子たちも、うちは楽しいと言っている。
親らしい威厳もないかわりに、威厳を今さらとりつくろう必要もない。
食い倒れ、食い倒れ、まさに言い得て妙である。
この気分が後年レストランを開業する遠因となったと信じている。
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第二話  ロゴスキー開店
食べ物を作ることが大好き、食べることが大好きという奥さんに、 願ってもない仕事が降ってわいた形でやってきた。
私は戦後、外食券食堂を見聞するごとに、ああうらやましい商売なるかなと思った。
一度はやってみたい商売だと思った。 常に真実に願うことは実現するという。
私のうえに、みずからの作ったロシア料理を、 多くの人々に供することができる日が意外に早く来た。

昭和26年3月18日、主人はマーケットの人通りまれな四等地であったが、 間口一間半、奥行き一間という店を、かのロゴジンスキーを短くした 「ロゴスキー」という名で開店することになった。
私は主人と共に店で働くことになった。
コックを雇うお金もなかった。「私がコックをやりますわ」と私はいたってお手軽に引き受けてしまった。
主人の従弟の奥さんのすず子さんに手伝ってもらうことにした。

最初は知人と三人で資金を出し合って始めたが、あまりの不振ぶりに他の三人は脱退してしまって、その分を私たちの借金として負った。

コックを雇うお金もなかったことは事実だが、 では、ロシア料理のコックというものがはたしてその時に、あったのであろうか。
どうも私の見聞するところでは、まずないと言えると思う。
満州在住経験のある奥様をたずねたり、 主人の話からこんなものであろうかと想像してみたり、 満鉄社員であったかたの料理好きの夫人に一カ月手伝っていただいたりして、 「お金をいただいてお客様に出すロシア料理」に苦心惨憺した。

しかし今からふり返って、コックを雇えなかったことに感謝する。
コックに頼っていたら、どういうことになったであろう。
料理を出すということは、そのような安易なものではないと思う。
私は今、だれに遠慮もなく、私の思いのままのものをお客様にじかにお出しできる。
コックに頼ったら、その自由は得られなかったと思う。
第三話 あやしげなロシア料理
お手軽に引き受けたものの、なるほど商売となると一苦労である。
家庭でお客様に出す奥様料理とは、まるでかってが違った。

ロシア料理、ロシア料理、それはいったいどういうものなのか。
開店して初めて心細くなった。お客様がこわくなった。
毎日試験場にあるような緊張感と不安が私をくたくたにした。
しろうとはこわいという。
どうしてあれでロシア料理の看板を臆面もなく掲げられたのか。
昭和二十六年ではそのあやしげなロシア料理でもどうやらまかり通れた。
珍しがって来てくださるお客様もあったが、多くは敬遠されてあまり歓迎されなかった。
だいたいあのような四等地、 どこにあるかわからぬような屋台の次のような小店に、 たずねてくださるお客様は、よほどの変わったかたであった。

そのときからの古いお客様が今でも時々いらしてくださるがよく、 あのころの、カチカチで石のようなピロシキ(肉まんじゅう)や、 野菜が煮くずれて、クタクタのドロドロになったボルシチ(ロシアスープ)の話が出て笑い合うが、 なつかしい思い出でもある。
そのカチカチのピロシキがまずまずやわらかになるまでに、ああでもない、こうでもないで、七、八年かかった。

夏の暑い日、一日炭火をしちりんにカンカンに起こしてお客様を待ち、 夜十一時までそのまま一人もなかった日も数度あったし、 一日にビール一本だけという日もあった。

気短の主人はやめてしまおうとときどき言い出したが、 まぁまぁとなだめつつ、さすがに暗然と、でもあすの日を楽しみに店をしめる。

しんぼうが肝心と心に言いきかせながらも、 東京でロシア料理店の成功したためしなしと聞いていたので、私たちもその口かと内心、不安でもあった。
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第四話  星空テーブルと七輪のボルシチ
ある夕べ、急にお客様が九名ではいってこられて、ピロシキが八個しかなかった。
どうしようかと思案にくれていたら、 一人のお客様が急用ができて帰られて、やっとまにあってほっとした。

七、八名で満員になるので、隣近所の飲み屋さんにイスを借りに走ることもあった。
お客様も心得たもので、 外にはみ出すと立て看板をイスとイスの間に渡した急ごしらえの星空テーブルで、 セルフサービスよろしく飲まれるかたがたもあった。

あまりお客様がないと、昼下がりなどそろそろ眠気が出て、 あわや火種がなくなろうという寸前に一人のお客様があって、ボルシチをご注文になったこともあった。
しちりんはまさに消えかかっている。
あわてて炭をつぎ足し、うちわであおげども、あおげどもおなべの中は泡一つ立たず、 たった一人前のボルシチに、どうしてこんなに時間がかかるのかと、さすがにしんぼう強いお客様もせかれるので、 いよいよこちらは懸命にあおいであおいで汗だくであった。

先日もマーケット時代の古いお客様が来店されて昔話が出、そのときのお話に 「僕はほんとに開店早々のころだったと思うなぁ。通りがかりに小さなおもしろい店があるので、 物好きで何を食わせるのかと思って入ったのが病みつきでね。
案外おいしいボルシチを食わせる。
ある日寄ってみたら他にお客もなくて、すぐにボルシチが出てきた。
僕は「どうだ。きょうは僕が一番目だろう?」といばったら、
おやじが「いいえ、一番目の方は、あそこでしちりんをあおいでいらっしゃるかたです」と言ったよ。 つまり二番目は一番目のおかげでボルシチが出てきたのさ」とおっしゃった。

しろうともしろうと、全くのしろうとがモタモタ、ノロノロやっているので、 お客様の方でも見かねていろいろ手伝ってくださるかたもあり、 そういうお客様とはお小言をちょうだいしつつも、親近感もひとしおで小さな店を愛してくださった。
僕はしちりんの下をあおいでやったというかたが数人はいらっしゃる。
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第五話 「ボールシチひとつ、ピロシキふたつ、トイレひとつ」
開店当初は着るものどころではないので、 あり合わせの着古した銘仙のあわせにお太鼓を結んでかっぽう着という、 まことにロシア料理のマダムのイメージとは縁遠い姿で、すず子さんも同様だった。
夏からは着物では暑さと働きにくさにまいってしまって、洋服ということになった。
白衣を皆が着ることができるようになったのは、だいぶたってからのことである。

主人は慣れぬオールドボーイの仕事に全く緊張して直立不動の姿勢になるので、 「おまえが軍服でしゃちこばってそばに立っていると、料理がまずくなる」 とお客様に苦情を言われた。

主人はルパーシカを作った。ロシアの部屋着である。
窮屈そうな古軍服からルパーシカになって、主人はなんとなく楽々とした感じになった。
以来、このルパーシカが気に入って冬はウールで、夏は麻で着ていた。
ついに十五年、一着も背広は持たず、彼はルパーシカで押し通し、 息子たちの結婚式にもルパーシカで、なんと言っても自説を曲げなかった。
しかし主人は主人なりの真四角な一生懸命さを愛してくださるお客様もあった。

開店した夏、少し店を広げて十五、六名の人がはいれるようになった。
すぐにお客様がいっぱいになり、主人は客席の真ん中に立ちんぼうになって 私たちに料理の注文を通す。
狭い店のありがたさである。
料理はリレーでお客様の頭の上を越えてゆく。いとも簡単である。

軍隊仕込みの声を張り上げて、主人はしだいに興奮して「ボールシチ一つ、ピロシキ二つ」とやる。
調子にのって「トイレ一つ」とやった。お客様が「トイレは?」とお聞きになったそうだ。
私たちも思わずふき出したし、客席でもわっと歓声があがったが、 主人は緊張のまっ最中で笑いもせず、あやまるでもなく平然と立っていた。
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第六話  読売新聞「味なもの」
そのころ、読売新聞に「味なもの」という記事が日曜ごとに出て、 思いがけず「ロゴスキー」が池部鈞先生によって、主人の漫画入りで紹介されたことがある。

その日曜は、私はなんの気なしに例のとおり店に正午ごろ行った。
篠原さんと言われる年配の女の方に手伝ってもらっていたので、 その人と二人で店をあけたところ、とにかく満員の盛況で三時ごろになって、 ボルシチも一滴もなくなり、サラダのドレッシングもなく、何もかも品切れで、 篠原さんはお客様がはいっていらっしゃると、 蚊の鳴くような声で「いらっしゃいませ」と悲鳴をあげた。

私は調理場に立ち往生してしまって、あおくなる思いであった。
しかもお客様は外にまで列をなすようなありさまで、 おことわりすると、せっかく新聞を見てきたのにとの仰せ。
私たちもやっと気がついたが、準備してないのはいたしかたなく、 やっと三時にあらわれた主人が一生懸命に頭を下げてお客様にお引き取りを願っていた。

事実、それ以来、お客様が急にふえたようで、 ようやく親子がどうにか食べてゆけそうだという感じが持てるようになった。
昭和四十年〜
昭和26年に「マーケットの人通りまれな四等地」という場所で、 長屋緑・美代夫妻、息子の隆とともに開店したロゴスキーは、 それまでのカウンターだけの小さな店から、 昭和30年に30坪の店へ移転することができました。

世のグルメブームもあり商売は順調に思えましたが、 昭和30年代の終わり頃、緑は病気になり、そして店自体もさまざまな問題が出てきました。

そこから昭和40年に東急プラザに出店するまでの出来事を、 前回同様、 初代調理長・長屋美代が昭和42年に出版した 「生きて愛して」(主婦の友社)より一部を抜粋してご紹介いたします。
(緑・美代夫妻は50代後半、隆は30代前半の頃のことです。)
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第七話  ロゴスキーをやめたい
(病気の緑は)ここまではまず平穏な療養生活であったが、 やはり私の家なりの一つの問題があった。
けっして家庭内のごたごたではない。
店の問題で、これは問題が起こらぬのが不思議である。
息子も三十を超せば一人前の意見を持つのは当然で、 父は病気とはいえ、気力はまだあるので、 全部息子の意見に同意するわけにはゆかないこともあった。

意見の相違で隆も私をハラハラさせながら病父と争う日々も出てきた。
(中略) それにしても、あまり時間を無視できぬ。事は急ぐことでもある。

隆の問題というのは、どうもこのままの状態ではロゴスキーを続けるのはいやだ、 やめたいと言い出したことである。
私は夕方店に出て、隆がちょっとと言うので外に出て、 この話を聞いたときにはショックであった。
ロゴスキーをやめる、そのことは考えてみぬことであった。

隆の考えではロゴスキーの、現在のように設備の悪い、古い、狭苦しい店、 それはどんなに料理に気をつけておいしいものを出すとしても、現代のお客の好みに合わない。
小さい店、たとえばロゴスキーの本・支店(注:支店は昭和30年代の一時期に営業していた 新宿店のこと)のあり方では 比較的人件費のかさむことにも、将来不安が生じてくる。

ウエートレス、ボーイたちの若い人にも好まれず、人の問題にも困ってくる。
いい人が集まらないとなると、致命傷である。
売り上げは限度があって、 この広さではもう頭打ちである。
それをどう打開するか、このままでは頭をひねってもじり貧となる。

現状維持では、商売は一歩後退である。 隆自身はこの店に希望を失いかけている。
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第八話  老朽家屋での商売
実際、隆の言うとおり、その夏、老朽してしまったロゴスキーの店で商売することに、 つくづく私も苦労した。
夏の冷房は、全部水道の水に頼る水冷式であったので、 その夏の水不足で、水道の水が時間的にあてにならぬとすると、 予約のないかたはおことわりできるが、予約をなさったお客様は、 冷房がきかなくてもお迎えせねばならぬ。

さりとてクーラーではとうてい場所がないのと、費用が莫大にかかる。
費用の点だけで考えるのなら、夏じゅうロゴスキーは休業した方が有利となるが、 それではお客様を失うおそれが多分にあるし、従業員のこともある。
さまざまのジレンマがあって、真実、私もむずかしさを味わった。
客商売のつらいところである。

ある七月末の夕、五時から二階貸し切りの宴会を引き受けていたが、 五時に水道が出るというので待ちに待ったが、時間になっても出ない。
客席は蒸し風呂のような暑さ、ここへどうしてお客様を迎えられよう。

ぼつぼつその宴会のお客様がいらっしゃるようになって、これはどうしようと冷や汗が出た。 第一、トイレの水も出ない。困った。
あのくらい気をもんだことはなかったが、 幸い、五時少し遅れて水道が出るようになり、ほっとした。

なにしろ老朽家屋なので、設備が全部古くなって、リフトがこわれる、
冷蔵庫がだめになる、雨漏りが始まる。

隆の意見も無理からぬことと身をもって体験して私自身もなんとか打開策をと念じた。
その秋、どこかに宴会のできる広い席を郊外に持って、そこに私たち一家も住もうかと考えたが、 これも言うことはやすいが、相当の広い土地と家屋のいることで、資金面で当惑した。
第九話  東急ビル(東急プラザ)と契約
またその直後、近所に東急不動産の空地があるので、 資金面でとてもだめとは思ったが、もしやと思って、 かねてお世話になっている東急建設監査役でいらっしゃるK様を、 隆がおたずねして、ご相談したところ、K様がそれなら来春、東急ビルができ上がり、 その八階の食店街にロゴスキーを推薦しようと思っている矢先だから、 ぜひそこに進出したらとのお話の由、隆は顔を輝かせて帰ってきた。
八階という話は、のちに九階に変更になった。

私もこれはと思って、胸の熱くなるような新しい希望の沸き上がる気がした。

帰ってさっそく二階にかけ上がって主人に告げたところ、 「ふうん」と言って、黙って考えていた。 主人も心進まぬではなかったらしいが、さっそくには賛意を示せなかったらしい。
もともと石橋をたたいて渡る主義ではあったが、病気のせいで、消極的な考えになりがちであった。
確かに病気以来、慎重と言えばそれまでだが、取り越し苦労と言える面も多くなっていたと私は思う。
心配はせねばならぬが、ある程度までのこと。
よく考えてののちのことは運を天にまかせることで、なるようになるものであろう。(中略)

彼は最初は賛成ではあったが、東急ビル進出のことはたぶんにあやぶんでいて、 少し時期尚早では・・・とも何度も言ったが、 結局、彼も決心して「よし、やろう」ということになって、 この一年近く父と子の間での言い争いが、よい結末を告げた。

その晩秋のころ、避寒の意味で伊豆の病院に入院することになっていたが、 ビル進出となれば、銀行関係や東急との契約にもいろいろ問題があり、 その他の相談事も多いので、彼は入院を新年に延ばして、すっかり安心して行きたいと言った。
来春5月に今までのロゴスキー本・支店を閉鎖して、 その全部をあげて東急ビルで営業しようと、それも一致した。


(中略:その後、緑は昭和40年1月〜5月に入院し、5月からは自宅療養していました。
その間、隆が緑に代わり陣頭指揮をとり順調に東急プラザ開店準備は続きました。
緑は6月7日(東急プラザ開店一週間前)に家族に手をとられ惜しまれながら亡くなりました。)
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第十話 古いものと新しいもの
彼は1月7日に伊東に入院し、5月7日に退院した。そして6月7日に逝った。


その日にすべてのものをコンテナーで東急に運び終わって、
古い店は完全に空き家になった。
彼は新しいものは一度も見ることがなく、古いものとともに滅びた。
彼は潔く新しいものの礎となったのだ。
それは彼の意志はそこにあったと思う。

昭和40年6月13日、
彼の死後一週間後に、渋谷ロゴスキーは東急ビルに開店した。
彼はみずからの設計し夢見たその店を、一目見ることなく逝った。
彼にこそ見せてやりたかった。
隆もおやじに見せたかったのにと嘆いた。
60年に7日の日が足りなかったのだ。
人生とはそうしたものであろうか。
実に「ままならぬ浮世」ではある。

東急ビル九階の店の人のざわめきも、窓外に見る街の青、赤のきらびやかな灯も、 夕映えの空に紺紫色のシルエットを浮かび上がらせているビルの美しさも、 それが美しければ美しいだけ、何もかも私と違う世界に見えて、寂寥と空虚が私を襲った。

私は開店早々の無我夢中の混雑と多忙の中に、 うつろな私の心をのぞき込みながら、黙って動いていただけだ。

私は、くずおれてはいけないのだ。
そんな気持ちだけが私をささえていた。
耐えることだけでせいいっぱいであった。
ほんとうに私は彼なきあとの生活に、はたして耐えられるだろうかと、 みずからあやぶんだが一年半の月日を生きてきた。
私を囲む皆の温情の中に。
ここまでのまとめ
昭和26年から昭和40年まで、 初期のころのロゴスキーの歩みに おつきあいいただきありがとうございます。

文を抜粋した本「生きて愛して」(昭和42年 柴田書店)は、 初代調理長・長屋美代が、夫婦の歴史を主軸に書いた本ですが、 それを語るうえでロゴスキーの話は欠かせず、その時々の店の様子が出てきます。

「渋谷ロゴスキー物語」はなるべくロゴスキーのことにしぼって抜粋しましたが、 最後の東急プラザ開店の話は、緑の死を乗り越えての開店ということで、 もの悲しくなってしまい申し訳ありません。

しかし、東急プラザ開店後、自分たちの悲しみとはうらはらに、 大変多くのお客様がご来店になり、毎日が戦場となりました。
そのことがどんなに美代や隆、そして当時の従業員たちが励まされ 希望を持ってやってこられたかは想像に難くありません。

そして、そんな日々から50年目の今年、東急プラザが時代の役目を終え、閉館します。 ビルの開業からついに閉館まで、東急プラザの九階でロゴスキーは営業し続けることができました。
これもひとえに通い続けてくださったお客様あってのことで、 昨年の終わりごろから最後の思い出にと、ご来店のお客様がひっきりなしの状態です。

店と言うのは、店側の思惑でできているものではなく、
店とお客様の共同作品なのだと思い知らされます。
緑だけでなく美代も隆も先代は皆亡くなっていますが、 もし生きていたらどんな風に思ったでしょうか。聞いてみたいものです。

本の中に、ロゴスキーの経営法についてこんな風に書かれております。
「ロゴスキーの経営法も、武士の商法で、全然世の商売常識をはずれた独自のものである。
専門家が見れば、商売でないというであろう。
しかし、今日営業している以上、まごうかたなく商売である。
駆け引きも何もない、あるがままの懸命の商売である。
大もうけもできぬかわりに、堅実にこれで食べさせていただいている。
正直で商売ができぬなら、商売をやらぬでもよいという主義か。
誠実にお客様に、本物のロシア料理を出すことを理想としている」

これからもずっと「懸命に」「正直に」「誠実に」あり続けたいと思います。
支え続けてくださるお客様に、先代、先々代共々御礼申し上げます。

2015年2月 渋谷ロゴスキー 横地美香
(緑、美代の孫にあたります。主人とともに現在のロゴスキー経営者です。)
〜平成二十七年(2015年)
いつも渋谷ロゴスキーをご愛顧くださりありがとうございます。
2015年はロゴスキーにとって特別な一年でした。
3月の渋谷の閉店、その後のデパート催事と通販だけというレストランのない半年間、 そして9月からの銀座本店開店という激動の一年を応援してくださった皆様方に深く感謝申し上げます。
この一年の出来事をロゴスキーの歴史の記録として、書いてみようと思いますので、よろしかったらおつきあいください。
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渋谷ロゴスキー東急プラザ店閉店と移転先探し
皆様ご存じのようにロゴスキーの渋谷の店は、 1965年から49年間出店していたビル「東急プラザ渋谷」の閉館に伴い、同日(2015年3月22日)閉店しました。

このことは渋谷駅前の大規模な再開発によるものなので、 閉館するということは10年以上前から決まっていましたが、具体的な日にちは何年もなかなか決まりませんでした。

渋谷駅前は地権者がJR,渋谷区、東急と大手だけでもこの3社(渋谷区は自治体ですが)が複雑に絡み、 さらに東急プラザの横や裏の雑居ビルが立ち並ぶ一帯はたくさんの地権者がいるため計画は何度も変わったようでした。
やっと、という感じで閉館日が最終決定したのは2013年のことでした。

それまでは、先が見えず本当に東急プラザを壊す日など来るのだろうか?と思うこともありました。
来てほしくはないけれど、どうなっているのかわからない状態での日々も落ち着かないものでした。

ともかく閉館が決まり、2014年の年末に東急プラザがプレスリリースを出し、 それに合わせてロゴスキーもHPと店頭貼り紙に閉店を告知しました。

ずいぶん前から移転しなくては、ということで、いろいろな人に声をかけたり、 数多くの店舗物件を見に行きましたが、まだこの時点で移転先は見つからず「移転はする予定ですが現時点では未定です」と書きました。

物件を紹介されるたび「ここはあのお客様は来られるかな?」 「あの方はどうかな?」と具体的にいろいろなお客様を思い浮かべましたが、 どこも来ていただける気がしなく、ピンとくるものがありませんでした。

それはさまざまな理由でした。
「出会い」というものがありませんでした。

一方、店には、告知以来たくさんのお客様が最後のお別れにと懐かしんで来てくださいました。
入りきれないお客様がロゴスキーの店の外にあふれ、それはだんだん行列になって行き、 最初は10人くらいだったものが20人、30人と日に日に多くなって行きました。

東急プラザが用意した掲示板にも
「お見合いをした」
「デートをした」
「誕生日祝いは必ずここだった」
「亡くなった親が好きな店だった」と、
ロゴスキーとの思い出話を書いて行かれた方のメッセージが貼られました。

お客様の良き思い出と深くつながっていることを知ることができ、胸がいっぱいになりました。

お客様からは毎日「移転先はどこ?」「まだ決まらないの?」と聞かれました。
年末あたりはまだ余裕で「まだ決まりません」と返答していたスタッフたちも 年が変わるとだんだん悲鳴のようになっていきました。

日に日に多くなるお客様の数。
閉店日に近づいていくに従い心配される方が多くなり、 質問も「こんなに決まらないなんてちゃんと探しているのか?」という聞かれ方もするようになってきました。

このころ「ロゴスキー難民」という言葉もお客様から生まれました。
「このままじゃおれはロゴスキー難民になってしまう」と言われたのです。
このままロゴスキーがなくなってはどうしていいかわからない、行くところがない、 どうにかして店を見つけてくれ、という意味の叱咤激励の気持ちから出た言葉でした。

閉館日の3月22日は、下の階までお客様の行列は続きました。
3時間くらい並んでやっと入店できるというほどの長蛇の列でした。
賑やかな列の中には、杖をついた老夫婦もいました。
ひとりで来ている人も何人もいました。
6時閉店までに入りきれないと思われるところから、 最後尾にスタッフがついてお断りをしました。

店内では、店長をはじめ調理人やホールスタッフが、 並んでいるお客様に少しでも早く入っていただこうと必死に動きまわっていました。
この光景は忘れられません。

ロゴスキーは店の思惑で出来ているものではなく、
この店を愛してくださるお客様との共有物なのだと思い知らされた出来事でした。
移転先でも良い店を作らねばと奮起しました。
が、しかし移転先はどうにもこうにも決まらず、店頭の貼り紙を「移転先決定」の文字に変えることはついになく、「未定」のままの閉店となりました。

毎日のように物件探しをしましたが、
街の姿も変わった渋谷に、
ロゴスキーがいられる場所を探すことができませんでした。
銀座ニューメルサからのオファー
渋谷閉店の頃、あまりにも移転先が決められずにいたので、 このままではロゴスキーは店を失ってしまうのでは、と思い始めていました。

店がなければ、ピロシキやボルシチ、セリヨトカ、ウズベクピラフ、そんなロゴスキーの名物料理たちがこの世から消えてしまう。
料理を作りお客様に出すという、店があるときはあたりまえに思っていたそんな簡単なことが、実に難しいことだと感じていました。

彼ら(料理たち)を世にリリースし続けたい。
その思いだけを強く持っていました。

そのためには、これだけ探しても渋谷にはなかったのだから場所を渋谷にこだわるのはやめよう、 とにかくどこかに店を出すことだ、そう思い始めたころ、降ってわいたように、 銀座5丁目の歴史ある商業ビル「ニューメルサ」からの出店のオファーがありました。

ここがその後、現在の店となったわけですが、 話がきてすぐのころは、渋谷にこだわらないとは言っても、 渋谷と銀座の場所が思いのほか離れていることや、条件面の厳しさなど、 ここでやれるという気はしていませんでした。

しかし、メルサさんと何度か話し合いの機会を持ち、 条件も少しづつクリアされ、何よりメルサさんがロゴスキーに対して大変好意的だったので、 トントン拍子に話は進みました。

駅からも近く、雰囲気も良く、ロゴスキーのお客様の客層は銀座に合っている、 きっと足を運んでいただけるだろうという気がしました。

はっきりと、やるという結論になり、契約の段取りもつき、 「よろしくお願いします!」と頭を下げたのは、4月に入り、渋谷の店は完全に終わった後でした。

スタッフたちにもやっと、ちゃんとした報告ができました。

渋谷閉店後、ほとんどのアルバイトは移転先のない状態でひきとめておくことはできず解雇していたので、 4月の段階で残っていたのは、社員5人とセントラルキッチンのアルバイト数名でした。
皆、黙々と渋谷から引き揚げた皿やクロスや調理道具を洗ったり片づけたりしていました。
不安の中で、誰一人それを口にすることはなく、ただただ決まるのをじっと辛抱強く待っていてくれました。
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デパート催事の日々
2015年4月、移転先も無事決まり、
長かった物件探しの苦行から解放され、ひとつ前に進むことが出来ました。

ただひとつの心配事は移転先の銀座ニューメルサのリニュアオープンが半年先の9月だったことです。

1か月か2か月は準備期間で空いてしまうかもしれないとは思っていましたが、 半年と言うのは想定外に長く、何の仕事もせずにいられるような期間ではありませんでした。

そこで、お世話になっている東急百貨店、三越、伊勢丹、東武百貨店、丸井の各デパートのバイヤーさんに相談に行ったところ、 それならぜひと、催事の仕事を次々といれてくださいました。

4月下旬から、銀座の開店間近の9月はじめまでほぼ毎週予定が埋まりその数は16件になりました。

お客様ともつながっていられること、ピロシキやボルシチを作り続けられること、 スタッフにお給料が出せること、そのようなことがすべて可能になりデパートの方々に感謝の気持ちでいっぱいでした。
この感謝を形にしてお返ししなければと皆身を粉にして働きました。

中でも5月の渋谷駅前の東急東横の催事は忘れられません。
ロゴスキーにとって本拠地の渋谷だったので、もちろんお客様にとって一番利便性の良い場所でした。
東横の方も「ロゴスキーが渋谷に帰ってきました!」と呼びかけてくださいました。

ちょうどこの時に移転先の案内チラシもできたところだったので 、配ることが出来、お客様に、「よかった!よかった!」「おめでとう!」と、言っていただき、 お祝いムードに包まれました。

移転先が渋谷でないことを残念に思う方ももちろん多くいましたが、 それ以上に店が存続できたことの喜びの声が上がりました。

どの催事も「レストランがない間はここに買いに来るわ」と言って、 たくさんのお客様が来てくださいました。

3月閉店直後は、シーンと静まり返ったセントラルキッチンでしたが、 夏の間中、息を吹き返したようにたくさんのピロシキを作り続けました。
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新店舗のデザイン
2015年4月から9月まで、毎週のようにいろいろなデパートで、ピロシキやボルシチを販売する一方で、 新しいレストランの準備も始まりました。

5月にはメルサさんから、ビルの名前が「ニューメルサ」から「イグジットメルサ」に変わり、 開店日は「9月18日」というプレスリリースも出されました。

新しい店のデザインは、渋谷の店の雰囲気を残そうとデザイナーさんより提案されました。

まず、店の正面の店名表示は、 渋谷店解体時に持ち帰った真鍮の切り文字を必ず使おうということになりました。
これは、今回の施工業者さん、デザイナーさんが、 渋谷の店の解体の時に驚嘆の声をあげたという昔の職人さんの本当の手仕事だそうです。
今はもう作ることができない技術のものだと教えていただきました。

一つの文字が一枚のものから切り出されているそうです。
(たとえばカタカナの「ゴ」が「コ」に点々をつけたものではない。ひとつながりのもの。「渋」も「谷」もしかり。)

これは大切にした方が良いと、アドバイスされました。
それ以外にも天井のステンドグラス、壁面のランプなど、 これはと思うものは解体時に大事に外し、施工業者さんが預かってくれていました。

さらに、年月とともに蒐集したたくさんのサモワール、 食器、銅版画、刺繍クロス、絵画、民芸品などが、倉庫に眠っており、 そういったものもこの機会にふんだんに使おうということになりました。

しかしそういうものだけだと、ただ古いものに囲まれているだけという店になってしまいます。
懐古趣味にはなりたくないと思いました。
古い調度品に囲まれているけれど全体としては「新しい」イメージの店を作ろうということになりました。
デザイナーさんはそこのところをよく理解してくださって、 ところどころに新しい息吹を感じるデザインを考えてくださいました。

完成間近のころ、奥の半個室の壁面の塗装の色が、 思っていた色と違うということがありました。
ここは入り口からもよく見え、室内全体のイメージを左右する色だったので、 ロゴスキーのシンボルカラーである赤紫を予定していたのですが、 でき上がりはオレンジがかった赤でした。

この色はどうしてもこだわりがあるので変えてほしいと申し出て、 すぐに了承してもらえ塗り直しになりました。

こだわったおかげで塗り直し後はぐっとロゴスキーらしい店内になりました。
内装工事は8月の暑い盛りに行われました。
9月に入り、18日のグランドオープンを前に、 真鍮の切り文字も入り口に埋め込まれ、天井にはステンドグラスが無事おさまりました。

渋谷に灯り続けた壁面の古いランプは何事もなかったかのようなすまし顔で、新しい店に半年ぶりに灯りました。
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新店舗の名称
2015年の年頭には思いもしなかった銀座出店。
渋谷という地の中での移転は叶いませんでしたが、 ロゴスキーが世の中からなくなってしまうという事態から回避されました。
しかも、場所は東京の、いや日本の超一等地銀座でした。

名称は「渋谷ロゴスキー 銀座本店」

9月18日開店以後、いろいろなお客様から店名について質問されました。
「なぜ、銀座にあるのに渋谷なのですか?」
「せっかく銀座にきたのだから銀座ロゴスキーに変えたら?」などが主なものです。
中には「渋谷という文字を、消さなくてありがとう」と言われることもたびたびありました。
この名前ひとつが、お客様とロゴスキーのいままでの歴史や移転のいきさつなどを話すきっかけになっています。
5月、イグジットメルサの最初のプレスリリースは、「渋谷ロゴスキー」(銀座の文字はなし)でした。
この頃は名称はそのままで良いと思っていました。
なぜならこの「渋谷」は屋号の一部なのです。
それはたとえて言えば、 渋谷は姓で、ロゴスキーが名のようなもの。
先々代から64年間も商売を続けさせていただいた 「渋谷」という土地に愛着や思い入れがあり、感謝の気持ちもありました。
「銀座ロゴスキー」も良いかとも思いましたが、 長年親しんだ屋号を変えるというのはとても決断がいるものです。
悩んでいる間に6月7月と時は過ぎ、8月のプレスリリースを前に もう一度正式名称をイグジットメルサに出さなくてはなりませんでした。
これが名称を変える最後の機会でした。
ちょうどこの頃、どうやったら移転したことを一人でも多くのお客様に知っていただけるかということを考えていました。
東急プラザ閉館から5か月ほど経っていました。問い合わせのお電話も多数いただいていました。
住所をお知らせいただいている方には地図の付いたハガキを出せるので良いとして、 それ以外の方にどうやって移転したことをわかっていただけるのかと考えた時に、 名前が渋谷ロゴスキーのままでは、渋谷にあるように見えるので紛らわしいかもしれないと思いました。
では、銀座ロゴスキーにしようかと思うと、 渋谷ロゴスキーと経営が違う別の店に思われるかもしれない、と思いました。
いろいろ逡巡した結果、両方の名前が入った名称「渋谷ロゴスキー銀座本店」に決まりました。
これは、いうなればロゴスキーがお客様に向けた地図つきラブレターのようなものです。
「渋谷にあったロゴスキーが銀座移転し本店としました。」という地図のような名前。
この名前には「お客様にお会いしたいです。どうか間違えずにこの場所までおいでください。 移転したことをどうか知っていただけますように。」という、そんな気持ちを織り込んでいます。
海外の名前に見られる、父方の姓、母方の姓両方を入れたり、 父や祖父の名前を入れるという名前の付け方がとても理解できる気がしました。
そして今はインターネットで検索してから来られる方も多く、 両方の土地の名が入っていればどのような検索でもHPにたどりついていただけると思いました。

店舗の看板の中にはこの名はありません。
「ロシア料理 渋谷ロゴスキー」という真鍮の切り文字があるだけです。
工事に間に合わない間際に「銀座本店」の名称が決まったということもありますが。 この真鍮の切り文字が長年渋谷で使ったものなので、そのままシンプルに使っています。

「渋谷に戻るのですか?」という質問もよく受けます。
店と立地場所は、人でたとえたら「結婚」のようなもの。
願っても叶わなかったり、思いがけずにトントン拍子に話が進んだり。
ロゴスキーは、何年もかけて作り出す、店とお客様の共同作品です。
ご縁があればきっと、その場所にロゴスキーがあるのでしょう。
今は、銀座という非日常感あふれる街にロシア料理店はよく合っていると思います。
今までなかったのが不思議な気がします。
どんな未来が今後待っているのかはわかりませんが、 銀座という場所に感謝をこめて、一日一日を大切に営業していきたいと思います。(終)
 
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